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【例会※要申し込み】令和五年度12月例会 仏教文学会・和歌文学会合同シンポジウム
12月は特別例会として、仏教文学会・和歌文学会との合同シンポジウムを開催いたします。
今回はハイブリッド形式(対面・オンライン併用)で実施いたします。
多くの方々のご参加をお待ちしております。

《12月特別例会》 仏教文学会・和歌文学会合同シンポジウム「中世釈教歌の可能性」
一、日 時 2023年12月9日(土) 
      13時30分~17時30分(13時 受付開始)
  会 場 明治大学 駿河台キャンパス 
              1階 1011教室
アクセス: https://www.meiji.ac.jp/koho/campus_guide/suruga/access.html

二、ブログラム
開会挨拶
明治大学 牧野淳司 氏

趣旨説明
コーディネーター 
兵庫教育大学名誉教授 山口眞琴 氏

中世百首歌における「釈教」題―『嘉元百首』を中心に―    
国文学研究資料館 岡﨑真紀子 氏

勅撰和歌集の神祇部における託宣歌
成蹊大学 平野多恵 氏

南無阿弥陀仏と和歌
上智大学 山本章博 氏

コメンテーター
茨城大学 伊藤聡 氏
お茶の水女子大学 浅田徹 氏

パネルディスカッション

全体討論

閉会挨拶
日本大学 西山秀人 氏

懇親会

三、ハイブリッド形式(対面・オンライン併用)の開催となります。

四、対面参加・オンライン参加ともに事前登録が必要です。参加をご希望の方は下記の参加登録フォームより事前にご登録ください。12月2日(土)までのお申し込みとさせていただきます。会員以外の方でもご登録いただけます。

※参加登録フォーム

https://forms.gle/MhQ1knHZ98H4b3Lv6

※今回は仏教文学会との合同開催につき、仏教文学会のフォームからのお申し込みとなります。あらかじめ御了承ください。
対面参加、オンライン参加にかかわらず、必ず事前登録をお願いいたします

五、メーリングリストにご登録の会員の皆様には、メールにて例会2日前までに当日のZoomのウェビナーIDおよび資料レジュメのURLを記載した「鍵付きPDFファイル」の保存先をお知らせいたします。鍵付きPDFファイルは、12月7日(木)までに仏教文学会の公式ホームページで公開をいたします。和歌文学会でメーリングリストにご登録の会員の皆様には、メールにて例会2日前までに鍵付きPDFファイルの保存先をお知らせいたします。会員の皆様におかれましては、ご協力のほどよろしくお願いいたします。

六、シンポジウム終了後に懇親会を開催いたします。
時間:18時から
会場:明治大学駿河台キャンパス・
    リバティタワー23階 
    宮城浩蔵ホール・岸本辰雄ホール。
会費:一般6000円・学生4000円
    (当日、お預かりいたします)。

ご参加いただける方は、12月2日(土)までに上掲の参加登録フォームよりお申し込みください。




七、趣意文、発表要旨

【趣意文】
兵庫教育大学名誉教授 山口眞琴

 本年十二月の仏教文学会と和歌文学会の合同例会として、「中世釈教歌研究の可能性」というテーマでシンポジウムを開催してみたい。いわゆる釈教歌については、これまでも『後拾遺和歌集』『千載和歌集』『新古今和歌集』などの勅撰集の部立収載歌をはじめ、『発心和歌集』や『散木奇歌集』などの家集、さらには寂然の『法門百首』や俊成・西行・慈円らの「法華経二十八品和歌」などに関する多くの研究蓄積が存在する。すなわち、平安時代とくに院政期における法華経関係の釈教歌を中心に研究が盛んに行われてきたのだが、その状況も近年はさほど活発であるとは言い難く、またそれ以降の釈教歌研究については、個々貴重な成果は見られるものの、全体としてはまだ低調な状況にあると思われる。だがその一方で、近年注目されている法楽和歌をはじめ神詠や託宣歌を含む神祇歌との関連、その前提にある神仏の習合・融合の思想性の問題、釈教歌そのものの顕密二教・諸宗ごとの個別性と共通性、それと絡むところの諸宗の兼学・兼修の考え方との関わり、あるいは歌枕を詠み込むといった表現特性、寺院歌壇における僧侶詠の表現位相の問題など、いま釈教歌を多方面から捉え返すのに絶好の状況にあることも、また確かなようである。そうした研究動向を踏まえて、今回は主として鎌倉期の釈教歌を取り上げ、それへの新たな取り組みにかかる研究報告をもとに、中世釈教歌研究の今後の指標となるような視点・方法・課題等について、さまざまに議論できればと考える。
 報告者は、著書『やまとことば表現論 源俊頼へ』をはじめ、『発心和歌集』『極楽願往生和歌』の注釈書と論考、「「釈教」の詩学―『新撰菟玖波集』巻十八の配列をめぐって」などの論文を発表されている岡﨑真紀子氏(国文学研究資料館)、著書『明恵 和歌と仏教の相克』をはじめ、「中世後期の勅撰和歌集における釈教歌」や「釈教歌の方法と文体」など、多くの関係論考を発表されている平野多恵氏(成蹊大学)、寂然『法門百首』の注釈書をはじめ、著書『中世釈教歌の研究 寂然・西行・慈円』や論考「一遍上人の和歌表現をめぐって」など、平安院政期~鎌倉期の釈教歌についての考察を展開されている山本章博氏(上智大学)である。本シンポジウムでは、岡崎氏には中世百首歌における歌題としての「釈教」の実相などについて、平野氏には勅撰和歌集の神祇部・釈教部における託宣歌の変遷と意義について、山本氏には浄土念仏信仰に関わる釈教歌表現の系譜と特質について、それぞれ具体的な歌集・和歌等の検討を通して報告していただく。加えて、コメンテーターとして、中世神道を中心とした日本宗教思想史を専門とされる伊藤聡氏(茨城大学)、中世和歌を機軸とした上代から近世までの和歌史・歌学史を専門とされる浅田徹氏(お茶の水女子大学)に、それぞれの専門的立場から中世釈教歌について提言・批評をしていただき、併せて報告内容への質問等を行っていただく予定である。
 以上のような報告・提言・質疑応答等の成果を踏まえつつ、中世釈教歌研究における可能性をめぐって、フロアーを含めてさらに活発な議論の展開されることを期待したい。


【発表要旨】
中世百首歌における「釈教」題―『嘉元百首』を中心に―
国文学研究資料館 岡﨑真紀子

 仏教に関連するさまざまな和歌を、「釈教」「釈教歌」という分類項目(部立)を設けて集成する意識は、勅撰和歌集においては『後拾遺和歌集』に現れ、『千載和歌集』以後は一巻を占めるかたちで継承される。一方、「釈教」という語を歌題として和歌を詠む営為は、「釈教」という部立のもとに和歌を分類する意識と、分かちがたく関連しながらも、異なる展開を示す部分があるように思われる。詠作といえば多くが題詠であった中世和歌において、「釈教」は歌題としてどのように定位されていったのだろうか。本発表では、『嘉元百首』における歌題構成と、その「釈教」題の一首である高階重経詠「あかなくに八千代の後の玉椿二たび春の色やかさねん」を中心として考察する。
 『嘉元百首』(嘉元仙洞御百首)は、十三番目の勅撰和歌集である『新後撰和歌集』の撰集を前提に後宇多院が下命した百首歌で、嘉元元年(一三〇三)には各歌人が詠進したと考えられている。歌題は春二十、夏十、秋二十、冬十、恋二十、雑二十で、雑の末尾に「神祇」「釈教」「祝」を配する組題である。この構成は、先行する『弘長百首』に倣ったものである。そして、『堀河百首』以来の天皇・院の命によって詠進された百首歌や、その他の百首歌と比較検討すると、「釈教」が歌題として定着しつつも、百首の歌題構成のなかでの位置づけは明確には定型化してゆかないという史的展開がうかがえる。
 また、前掲の高階重経詠は、『嘉元百首』書陵部本等の注記に従えば、仏教を会得した者の寿命が永久であることを表した歌と解釈されるが、用いられているのは君への祝意を示すかのような歌句である。歌題の配列からくる連想と下命者への意識が、「釈教」題の詠作における言葉選びにも滲み出たのではないか。それは『嘉元百首』の題詠歌に見られる傾向の一端をものがたる。
 百首歌の歌題構成に収斂する和歌の伝統的な発想の体系のなかで、「釈教」題は主流をなすものではない。だが主流ではないからこそ逆に、なべて和歌および題詠のありようを捉え直す端緒となる可能性もあるのではないだろうか。


勅撰和歌集の神祇部・釈教部における託宣歌
成蹊大学 平野多恵

『古今集』以来、勅撰和歌集は四季や恋などの部立ごとに構成され、四季や恋の部の和歌の配列には時系列という強い定型がある。一方、後から設けられた部立は配列の型が固定化されていないため、撰集に関わった為政者や撰者の意向が反映されやすい。こうした分析は撰集を命じた為政者を言祝ぐ歌を収める賀部を中心に行なわれてきたが、本発表では、神祇・釈教の部立に収められる神仏の「託宣歌」に着目する。すべての勅撰集に託宣歌が収められているわけではないが、収める場合、ほとんどが神祇と釈教で共通して巻頭や巻尾に配列されており、その重要性がうかがえる。
勅撰集の神祇歌・釈教歌が『千載集』ではじめて各一巻の部立とされ、以後、最後の『新続古今和歌集』まで継承されたことはよく知られている。しかし実際は、『千載集』以前に第七勅撰和歌集を目指して編まれた『続詞花集』の時点で神祇と釈教は独立していた。『続詞花集』は下命者の二条天皇が完成前に崩御したことで勅撰集として成立しなかったが、神祇と釈教を部立として独立させた先駆けとして注目される。
これまで勅撰集の神祇歌・釈教歌は個別に研究されてきたが、この二つの部立は同時に立てられたものであり、両者をあわせて検討することで見えてくるものがあるのではないだろうか。
そこで本発表では、『続詞花集』以後の勅撰集の神祇部・釈教部における神仏の託宣歌のありかたを検討する。おおまかな見通しとして、勅撰集に託宣歌が収められることは『拾遺集』にはじまり、神の託宣歌が先行し、『続詞花集』に至って仏菩薩の託宣歌が釈教部に載せられるようになったことが確認できる。神祇部の託宣歌は『続古今和歌集』頃から仏教語が用いられ、『玉葉集』『風雅集』になると仏教語の使用が深化し、神仏習合的な色合いを深めていく様相もうかがえる。こうした託宣歌の変遷をたどりながら、勅撰和歌集における神祇歌・釈教歌の意義を考えたい。


南無阿弥陀仏と和歌
上智大学 山本章博

 釈教歌の研究は、「法華経二十八品歌」を中心に進められ、その表現史の輪郭も明らかになってきた。一方、和歌は浄土信仰と深く関わってきたが、このことを正面から取り扱った研究は少ない。中世の「法華経二十八品歌」が伝統的な和歌表現を取り込んで『法華経』の世界を彩り豊かに描き出したのに対して、浄土教系の和歌表現には文学性が欠けるとされてきたためであろう。しかしそれは、個人や教団の信仰のみならず、勅撰和歌集をも支えたものであり、決して傍流であった訳ではない。
 法然、一遍、他阿、蓮如など、専修念仏系の聖たちの和歌が伝えられているが、その和歌表現の特色の一つとして、歌の中に「阿弥陀仏」「南無阿弥陀仏」を詠み込むということがある。浄土信仰に関わる和歌の歴史的展開を明らかにするために、まずはこの表現の系譜をたどり、整理のきっかけとしたい。
 その始発は、『拾遺抄』の巻軸歌、空也の「ひとたびも南無阿弥陀仏といふ人の蓮の上にのぼらぬはなし」にある。以降の勅撰和歌集『金葉集』『千載集』『新古今集』の釈教の末尾に、浄土信仰の歌を配置するのは、この『拾遺抄』の影響下にあると思われる。各歌人レベルでみると、「阿弥陀仏と唱ふる」「阿弥陀仏と十度唱ふる」といった句を詠む歌が、選子内親王、俊頼、教長、西行、慈円、家隆などに見え、空也詠を踏まえた歌が詠み継がれている。
 また、歌のはじめの字に「なもあみだぶつ」の七字を置く歌が、有房、定家などに見られる。中でも『有房集』の七首においては、いずれも結句の七音に「南無阿弥陀仏」を詠むという新しい形の表現が出現し、この後、慈円が盛んに試みている。特に「人を見るもわが身をみるもこはいかに南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」(賀茂百首)の一首が、『四十八巻伝』に引かれていることが象徴するように、慈円の歌は後の専修念仏の聖たちの歌の拠り所となっていたのではなかったか。このような系譜を軸として、浄土信仰を詠む和歌の広がりを同時に捉えていきたい。


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